写真論(10章27節)

第1章 [写真を通して複眼思考を]
1節 < はじめに>
私は、自分史における写真の位置づけを、常に考え続けたいと思っております。それは、ある意味で、ライフスタイルでありライフサイクルだからです。人生の目標には、様々なものがあります。人間完成、生涯学習、資産形成等、写真はその過程において、知的財産としての意味と価値を高めてゆきます。自分史をリフレッシュさせる一助としての写真に、私の興味は生涯尽きることがありません。
2節 <ライフスタイル> 
知的財産として、写真に求められるものに、ライフスタイルがあります。これは、心の内なるものを外向きに発信してゆく行為であり、社会規範や思想、信条とは他の、精神的世界の表現の場でもあります。ライフワークとは、写真の行為を手段として、個人の目的のみならず、むしろ第三者に対する貢献への手段、そして、道具として活用した時に、その価値と存在をアピールできる、未知なる可能性を秘めた、人生の手段であると考えます。志ある人のライフスタイルは、自分史に光を投げかける花束であると、私は信じております。
3節 <感性と個性>
知的財産にかかる写真の差異とは、ライフスタイルの質の差ですが、個人の趣味から業務の一手段へと幅の広い世界を吟味した上で、個人の表現の質の差を写真に見ることになります。 自分史における写真とは、アマチュアとしての感性と個性を写真という媒体に焼き付けることですが、時に業務の世界との対比の中で精彩を放つものであると、日々感じております。
4節 <作画について>
ライフスタイルの個人差とは、アマテュアとしての、感性そして個性を下地にしていますが、写真というモノサシを用いることで、第三者と自らの差を推し量る自由度を獲得できます。写真によるコミュニケーションの興味深いところは、異業種間の親睦を、ライフスタイルの差で、お互いに見つめ直すところに成立するのです。写真を通して複眼思考を身につける為には、ライフスタイルの他に、写真に対する自らの手法である作画が要求されるのです。
5節 <自分史と写真>
自分史における写真とは、ライフスタイルを通して、異業種の人々とコミュニケーションを深める事と、第三者として立ち会う事の喜びを与えてくれるものです。写真は個人の視点から、相手の履歴という世界へ開かれてゆきます。この出会いを、より個性的なものに演出することが、ライフスタイルを基調とする作画にあるのです。

第2章 [作画の練磨は交流の場で]
6節 <2つの骨子>
自分史における写真の価値とは、個人のライフスタイルを基調とする作画にオーバーラップします。その時に要求される作画力は、構築されたものなのです。作画を構成する骨格としては、二つあげられます。一つは、撮影してから写真の仕上がりをみるライフスタイルが定着している事、もう一つは、カメラの位置から見るということです。単純なことですが、写真が見た目に自然であること、カメラというモノサシを個人の作画の要とする為には、交流の場における練磨が、かなり必要とされるのです。
7節 <見た目の自然さ>
自分史における写真が、意思の疎通の最適な手段として活用される為には、自らの作画が、写真を通して見る側と見られる側の感覚的な差異を、見た目の自然さという許容範囲内に認識することにあります。そして、この十人十色ともいえる作画を、自らの個性としてアピールし自分史構築の一つの方法論として展開するところに、写真の意味と価値が見いだされてゆくのです。
8節 <意識の変換>
作画とは、自己に定着する内輪を、交流の場を通して見る側の共感と信頼に変換する、意識の練磨なのです。見た目に自然である写真のモノサシは、日常の倍変換を意識の変換に昇華させるところに魅力があります。ライフスタイルを基調とする作画は、正にそうです。自分史における写真の意味とは、個人の感性の発露を、作画というアングルを通して人生に定着させることなのです。

第3章 [常用のアングルを持つことから]
9節 <撮影ノート>
自分史における写真とは、ライフスタイルを基調とする人生のガイドブックです。身近な人間関係から未来図へと、自分自身の言葉で締めくくる自らのバイブルでもあります。自分史とは人生の集大成ですから、ガイドブックは人生を検索してくれる良き相棒なのです。ライフスタイルを基調とする、アングルのこだわりこそ、撮影ノートの第一歩であり、価値基準の主張の始まりを意味するのです。価値のあるノートを熟成してゆく喜び、それは、こだわりのアングルを持つ楽しみでもあるのです。
10節 <価値あるしおり>
自分のアングルを持つことは、見た目に自然であるという枠の中で、第三者とのライフスタイルの勝手の違いを踏まえる事と、相互に理解する場づくりにあります。お互いの感性を表出しながら、常用のアングルによって更なる理解を深めることが、練磨としての蓄積を許容する内輪の定着になるからです。こだわりのアングルこそ、ライフスタイルの差異を理解し、更なる感性に磨きをかける特効薬でもあります。アングルは撮影ノートの価値あるしおりとして、そして、魅力ある作画は自分史に意思のある軌跡を描いてくれるのです。

第4章 [森羅万象に対峙する]
11節  [最高の宝]
自分史における写真の価値とは、感受性の変化してゆく個人の編年史から、友人や知人という交際の見幅の中で、相互に分かち合える絆を引き出し、その輪郭と余韻を与えてくれるところにあります。身近な森羅万象に対して、意識の変換という自分の世界を構築する喜びは無上のものです。自然の中にあっては、常用のアングルとライフスタイルを基調とする作画をもって対峙する一瞬に、時空を超えた共感という絆を獲得できるからです。最高の宝とは、正にここにあるのです。
12節  [時空を超えた絆]
写真には、二つの価値が常に存在しています。一つは自己の存在の確認手段として、もう一つは写真の共通認識という意味においてです。目見当をつけ作画することで、自己の目的を具現化した、集約の構図に結実させるには、経験という場数と道のりが必要であり、そこに努力という自己の存在を確認できるのです。共通認識という意味では、写真という共通語から、効果的な意味は他にして、見た目に自然であるという前置きが、時に必要です。写真が、人間関係の貴重な宝になるためには、自己存在の確認手段から、写真を共通認識として必要とする間柄へ、意識の変換を強いられるのです。そうすることで、写真は時空を超えて絆のような価値を得ることができるのです。

第5章 [遙なる一瞥は儀式を超えて]
13節 <出会いの恵み>
写真を通しての出会いには、偶然というイマジネーションの到来が華を持たせてくれます。自ら臨むところに、予期しなかった出会いが恵みとなるからです。写真を通しての、立ち会うことの喜びとは、自分史という年輪に、偶然という枝葉を増やしてゆく、人生の幹をつくるところにあります。人の和を天の恵みとして、養分のように蓄えることが、写真を通しての出会いの魅力なのです。
14節 <会釈という一瞥>
写真を通しての出会いの本質とは、意志の疎通を会釈ともいえる一瞥に、遙なる人間関係の共感に価値を見いだすということに他なりません。自分史における写真とは、心のパースペクティブを利器に、自らの考察と志向性に軌道を与え、世界像を構築するところにあります。私にとって、この写真の原点は自分史の起点であり、意志の疎通に快い会釈を交えて、写真に価値を見いだす同志への一瞥でもあるのです。作画することと、常用のアングルを持つことは、自分史における中心軸であり、自らのライフスタイルという一冊本の、貴重なしおりでもあります。遙なる一瞥という会釈をもって、自分史に精彩を放つ世界像を構築できるのです。
15節 <虹>
自分史という、ある意味での投資は、心の架け橋であり、時に虹のような現象に例えることができます。この理想ともいえる心の大橋は、今まで無かったものであり、願望の橋渡しでもあるのです。人の聖域に触れる人はいませんが、人と人は支え合うという信条のもとで、交わされるべき一瞥、そして一助としての写真に、その存在価値を、大いに認めることができます。自分史における写真とは、志ある個性と一つ屋根の下の聖域とに架けられる、太いパイプでもあるのです。もし、遙なる一瞥に使命を与えるならば、それは未来の同志に還元をもたらす、夢の儀式に象徴されることでしょう。

第6章 [目見当をつけること作画のバネに]
16節 <アングルの魅力>
自己の解放、そして無限大のまなざしという、カメラアングルの魅力は、目見当をつけること、体でとらえる醍醐味にあります。撮影対象を前に、謙虚に臨むことは、方法論とは個性であり明文化しない他者との差異や、時に不文律といえる状況を認識することです。アングルの魅力は、人と人との引き合わせに、十二分な食欲をもたらす、刺激的な素晴らしい機会を与えてくれることです。カメラアングルの内訳は、まず、センター、高さ、カメラの振り、ピント合わせというテンポであり、リズミカルな三拍子から四拍子的なもので、見た目の自然さの美学には、アングルを追求するもの同志の魂が宿るのです。

第7章 [シューティングというスタンス]
17節 <自らの特権>
まず立ってみる。センターに。そして高さ、云々という具合にカメラアングルを掴む訳ですが、あくまで撮影対象と自分の間にカメラが入った、或は置いたというニュアンスのものです。カメラを覗きこんで、アレコレ決めるというのを、ひとまず止めて、何もかも忘れて全身全霊をもって向かい合うというものです。見た目の自然さをテーマとする目見当の世界とは、フットワークによるものです。作画とアングルに対する自らの姿勢を、個性と社会を繋ぐ写真という認識に絡めながら、共感という強い絆に高め、双方に蓄積してゆく貴重な財産として、写真は歴史なのです。そして、シューティングとは自分を鍛え磨いた人生の証であり、自らの足取りを気迫で伝える特権なのです。
18節 <一里塚>
公に写真が事実であり、財産である十二分なものに集合写真があげられます。文字通り、志を持って集い合う場のことであり、記念日はある意味で象徴する出来事です。暦における記念日とは、新鮮な驚きを永続的なものへ高め、その洞察をより掘り下げ、常に揺さぶり続ける原動力なのです。初めて訪問したところの日時は、決して忘れることのない、自らの探求心を証する一里塚のようなものです。新鮮な驚きこそ創造することの源泉なのです。シューティングのスタンスとは、志の一里塚、点と線を結ぶ撮影者の、飽くことをしらない欲求のスタンスでもあるのです。

第8章 [集合写真の命]
19節 <生きがい>
常に驚きを持って、ある種の敬意を抱きながら、時代を目撃し続ける撮影者の誇りとは、生きがいなのです。そこには、歴史という事実に対する信頼と、撮影者の創意工夫の視座といえる張り合いの楽しさが、醸し出されます。生きがいとは、時に値打ちであり、ライフスタイルを脈打つリズムなのです。撮影者は、記録を通して個人と写真を見る側を取り込んで一体化し、共感という強い絆を生み出してゆくクリエーターなのです。表現手段として、写真の特筆すべき点は、残されれば記録であり財産であることです。それゆえに、写真が公の事実である為には、生涯にわたって問い続けられるだけの姿勢が要求されるのです。それが撮影者の生きがいなのです。
20節 <正対すること>
正対することが、個人の血肉であることを、端的に物語るのが集合写真のスタンスなのです。正対するとは、対象に正面きって臨むことであり、自らのなしうることの確からしさと、はなはだ良いという確認を真正面から行うことなのです。写真のパースペクティブにおいて、心の中で対象に斜めに構えたことではないとする唯一のスタンス、それが集合写真の命なのです。一人一人に語りかけてゆくようにして、等質のまなざしを投げかけてゆく相手への距離感。全ての撮影は、常に集合写真の中の一人一人のクローズアップであるという心持ちを養うことが、写真の大局観という奥行きなのです。そして、正対することは、個人の血肉を包括する場でもあるのです。
21節 <心意気>
創作とは、心意気なのです。それを形に変えてゆくプロセスが、方法論としての作画とアングルなのです。写真において、正対して臨むことの意味は、気迫のこもったスタンスで、リズミカルに対象を構図の中に取り込んでゆく、経験とカンの証明なのです。写真という意識の変換において、正対する写真の意味を軸に、その枠を離れたアングルを探索してゆくことが、表現の自由と価値なのです。正対することで、多面体としての対象の、取り込みたい部分の主体的な解釈が、アングルとカメラポジションにより可能になるのです。作画という意識構造は、経験からくるものであり、正に学習ですが、繰り返し反復するという反芻なのです。写真を通して学ぶことは、人生におけるスタンスの、猛省という名の反芻勝ちという一面を知ることにあります。シューティングの意義は、ここに宿るのです。
22節 <一つの間口>
写真の本質の一つには、瞬間芸の相互理解があります。撮る側と撮られる側のコミュニケーションの帰結ですが、撮影は、「だれが、どこを、どのように追って見たかわかる」という話法に近い、目線の忠実さを裏打ちするものだからです。ひと一人では、何もなしえませんが、相互理解という精神の橋渡しは、撮影者の心の軌跡であり、写真は、その交流を歴史に刻むのです。正対することの意味を教えてくれる、一つの間口としての集合写真は、あらゆるアングルと構図のバリエーション生み出す原点なのです。何故なら、カメラを通して描く人生の「ひき」は、相手に対してなしうる
ことの正確さを、唯一把握できる栄光のスタンスだからです。

第9章 [無限大と等質のまなざし]
23節 <カメラの引き>
写真の質を決定する一つの要因は、撮影の鍵となるカメラの引きにあります。これは、写真が個人の主体的な解釈であることに、自由度をもたらす中心的な課題なのです。撮影はこのカメラの引きを支点に、目の前の世界を二つに大別して、撮影者を取り巻く状況を際立たせてくるのです。奥行きとは、撮影者の自由に行動できるスペースの距離と、カメラと対象との距離の合算です。この奥行きが写真の中身を定め、同時に撮影者の存在に輪郭を与えてくるのです。まず獲得すべきは、無限大のまなざしです。森羅万象に対峙する、ひたむきな真摯とは、ここにありそうです。そして、もう一つは相手への等質のまなざしです。相手への距離は、いつまでも常に変わりはないといえるシューティングのスタンスなのです。距離感は、個人の感性の差もありますし、対象のカテゴリーの隔てや微妙な差異も知らなければなりませんが、カメラの引きを武器に、無数のアングルから表現の無限の可能性を、引き出してゆきたいものです。

第10章 [シャッターチャンス] 
24節 <立ち会うことの喜び>
自分らしく歩むことを原点に、人生の節目ごとに、新たな彩りを書き加えてゆくアルバム、それが写真であります。様々な観点と世界像を喚起しながら、常に新たな知見を絡めて、それまでとは違う別の意味体系に、焼き直すことのできる写真は、正に知的資産であります。そこには、立ち会うことの喜びが宿ります。それは、コミュニケーションにおける精神的支柱であろうとする気概なのです。この心の感度を大いに磨き、全開にしてゆくことと、目は命、そして目一本という信念を持つことが肝要なのです。時に、闘争心でもありますが、人生における節目を新しい世界へ導く、自分の目から、はた目に写し換える一つの決算なのです。
25節 <会う人の全てが師>
目は命、目一本の写真ですが、一人でできるという観点から、皆の目で取り組んでゆける場の広がりと発展に尽くすことが、心で撮る世界であると断言したいものです。撮影とは、常にワンマンの世界であります。そして、その一人であろうとするための、努力は常に強いられるものです。カメラを通しての出会いと喜びは、節度を踏まえたものであり、会う人全てが師である位の、対象への敬意は常に払われますが、撮影そのものを一言で例えれば、ただ皆のことを思ってしたことに尽きる位のものです。そうした中に、人生における最高の喜び、シャッターチャンスがあるのです。自ら成しえることに誇りを持ち、相手に訴えかける気迫を持ち続けることが、生涯撮影であります。写真は、時空を超えて人の和を、新次元に昇華させる美学なのです。
26節 <異体同心として>
肉眼と同じ自然な写り方という、見た目の自然さの追求は、実は同心といえる事柄への渇望を意味しています。写真というテーマで、森羅万象に対峙する時、取り組みは十人十色で、同じ道具の使い勝手でも、撮影の気持ちは、あくまで異体同心なのです。飽くことを知らない写真追求の本質は、同心の獲得としても、過言ではないのです。その為に、可能な限りの努力をするのです。全ては、かけがえのない自分のオリジナル写真の喜びを守る為です。撮影における、日々の行動半径は生活半径ですが、写真という同心の構図を通して、お互いの価値の大いなる飛躍の為に、シャッターチャンスという意識の変換は、人生に、かけがえのない宝を授けてくれるのです。
27節 <支え合っての1>
私は、カメラを持ち撮影に携わる全ての人に、期待し熱望し続けることは、写真の主張を支える、底辺の最小単位の1(何らかの意味で1組というような)は、支え合っての1であるとする認識に至って欲しいということです。撮影の場は、常に個人の社会参加の場であり、協働という開かれた未来への、試練の場でもありますが、個人と組織の相互理解を、これからの共通認識にかえる挑戦の場でもあります。撮影そのものは、会う人の全てが師であるという師弟共戦の絆を、琴線の付き合いに翻す場でもありますが、親睦という視点で、交流の場における永続性の確認の場として頂きたいのです。撮影は、異業種間における複眼思考をもって、基本の1は支え合っての1であるとする出会いと夢を、大いに育む場にして頂きたいものです。一意専心のシャッターとは、限りない展望と可能性を秘めた、自分史の完成に対する挑戦の大いなるスタンス、その一語なのです。
by suguru2056 | 2007-02-12 11:38 | 写真 | Comments(0)